HISTORY 歴史を知る

1669-1943

創世

350年前、
「鋼」に志を込めて始動。

岡谷鋼機の社名にある「鋼」には、岡谷鋼機と金属の深い関わりが刻み込まれています。そのはじまりは、1669年(寛文9年)名古屋城下(鉄砲町)に開業した「笹屋」という金物店でした。全国的な商品流通の拡大に対応して、仕入ルートを拡充し、打刃物、銅・真鍮製品から大工道具・農機具まで品揃えを充実させることで、「金物の事なら笹屋へ行け、なんでもある」との評判を得るようになりました。この後、笹屋の業容はさらに拡大し、組織経営確立のため「出世(昇進)制度」、「別家(のれん分け)制度」、そして「季節番頭(販売員募集)制度」など、立て続けに店内制度を打ち出します。中でも「季節番頭制度」は販路を大きく広げ「名古屋に笹屋岡谷あり」とその名を全国に知らしめました。また笹屋の店員の業務と営業姿勢の心得を示した「店則」と「日誦五則(にっしょうごそく)」は、岡谷鋼機のCSRのルーツとして現在まで脈々と受け継がれています。
明治に入り、岡谷鋼機は国家の殖産興業政策に伴い1871年に「愛知七宝会社」、1881年に「名古屋紡績」を設立。また、日本の鉄鋼需要の変化をいち早く捉え1888年に輸入鉄を専門に扱う店舗を開業し、岡谷鋼機の多角化と大きな発展の礎となりました。この後、1909年に個人経営「笹屋」から「岡谷合資会社」へ改組、さらに1937年に「株式会社岡谷商店」として株式会社化し、1943年に現在の社名「岡谷鋼機株式会社」に改称。鉄鋼金属を表す「鋼」と機器金物を表す「機」を併せ持つ、次代を見据えた企業がここに誕生したのです。

1945-1965

黎明

新たな時代へ応える変化と
変わらざる良き伝統を胸に。

1945年の敗戦を受け、この年の売上高は前期に比べ約3分の1に減少し、さらにGHQによる本社ビル1階の接収や中国各地に展開していた拠点の閉鎖など、かつてない苦境に立たされます。しかし、そんな苦境の中でも、敗戦の翌年には社内報の創刊、永年勤続表彰制度や従業員持株制度の設立など、意気消沈した社員を鼓舞するための施策を次々と打ち出しました。「人」が会社を創り上げる原動力である、との信念は、今も揺るぎない伝統です。
また、こうした社内諸制度の充実と並行し、商社機能の向上を図るため貿易部を発足させ、1950年初頭から積極的に海外拠点づくりに邁進していきます。ニューヨーク、シンガポール、香港など1960年までに6つの海外事務所を設置。
一方国内では、既存の商流により強みをもたせるため鉄鋼の加工センターや埠頭倉庫を新設。販売網の強化とともに営業力を強化していきます。
こうして商社としての機能を拡充しながら、1964年「創造性なき企業に成長なし」を掲げ、社員から革新に満ちた創造性ある提案を募る「提案制度」を導入。商社としての機能を着々と充実させながら、社員にも挑戦を求める岡谷鋼機は、戦後の時代を乗り越えて、新時代を切り拓いていきました。

1968-1986

成長

鉄鋼を基幹事業に据え、
事業の多角化へ本格始動。

高度経済成長の高まりに伴い鉄鋼需要が堅調に推移しつつある中、岡谷鋼機は時勢を見据えつつ事業の多角化への動きを本格化させていきます。住宅・都市開発、公害防止機器分野への参入、新商品の輸入など、様々な分野にビジネスフィールドを広げました。特に新商品の輸入では、海産物、酒類、衣類から、家具など、未知の領域にも挑戦。これが現在の食品本部の前身となりました。
1970年代に入ると海外進出を一層強め、ドイツ、タイ、オーストラリア、ブラジルに現地法人を設立しました。
1980年代はエレクトロニクス技術の進展を見据えた新規市場開拓に取り組み、電子・電機、新素材分野など新規市場に精力的に参入していきます。既存市場に確固たる地位を築きながらも、常に次代への対応を怠ることなく継続していく姿勢は、今も昔も変わりません。
1984年には若竹色をコーポレートカラーとし、「OKAYA GREEN」と名付けた他、岡谷鋼機発祥の地である名古屋市中区栄二丁目(旧鉄砲町)に本社ビルを建設し、新たな歴史を刻んでいくための地盤を固めました。

1986-1993

変革

提案型商社への意識改革と
組織強化に挑む。

この時代、国内外で時代の転換期となる出来事が立て続けに起こりました。好景気に湧いていた国内市場は1990年頃から一気に縮小。海外では1989年に「ベルリンの壁」が崩壊し、東西冷戦も終焉を迎え、自由貿易圏が一気に拡大していきます。商社ビジネスも国単位から地球規模に拡大し、商圏獲得に向けた機能革新が求められる時代となりました。加速するグローバル化のなかで、あらゆる産業構造に変革が迫られ、商社もまた例外ではありませんでした。
こうした時代背景のもと、岡谷鋼機は中期経営計画「GREEN90」をいち早く策定し、「営業体質のリストラクチャリング」と「安定した収益力の確保」という基本目標の実現に向けて動きを活発化させます。
1990年には岡谷篤一が社長に就任。就任時の「社内の英知を集め付加価値のある商社機能を創造していきたい」という言葉は、その後打ち出された中長期計画「GREEN95」の中にある「提案型商社」への変革を強く推し進めて行くという決意表明でもあったのです。マーケティング、エンジニアリング、物流・加工などの機能を強化し、岡谷鋼機がリーダーシップを発揮してビジネスを提案することで、新しい時代を生き抜くことを目指すものでした。
この時代は、来る21世紀に向けて、「一人ひとりが自分で考え、自分で行動して、自分で見つけて商売を創っていく」ことに励み、「仕事を語り、会社を語り、人生を語れる会社」にするというビジョンを掲げ、邁進していった時代でした。

1994-

世界へ、次代へ

岡谷鋼機の存在感を示す、
グローバル展開への加速。

1995年名古屋証券取引所に上場を果たし、「上場企業」の一員となった岡谷鋼機は、企業経営の健全性と体質強化を推し進める一方、次世代に向けての商社機能の高度化、より実践的なグローバル人材の育成・強化、新規事業促進を柱とした新中期計画「GREEN97」や「GREEN2000」を策定。海外展開の基盤を拡充するための施策を明確に打ち出していきます。アジアでの商圏拡大を目指し、韓国、タイ、インド、そして中国では上海・広州・天津・北京で相次ぎ現地法人を設立。米国市場拡大のための米国岡谷鋼機の拡充によって、世界市場で岡谷鋼機の競争力を高めていく時代の到来を迎えました。
2007年からはGlobal Business(海外取引の拡大)、Innovation(技術革新への挑戦)、Human resource(人材育成)のイニシャルをとった「Gih-10」が策定されました。その後、「Gih-15」「Gih-2020」と計画は引き継がれました。G:インドネシア・ベトナム・マレーシア・ドバイ・ブラジル・メキシコ・イスラエル・シリコンバレーに拠点を開設し、更なる海外取引の拡大を加速させました。I:「環境」「省エネ」「省人化」「次世代技術(ロボット、IoT、AI等)」を通して新技術へのアプローチに注力しました。H:部署内・部署横断でコミュニケーションを重ね、自由闊達な議論を経て、全社をより活性化し、社員全員が自己啓発に取り組むことで総合力の発揮に繋がりました。
2021年には岡谷健広が新社長に就任し、5年後の2025年度に向けた新中期計画「Global Innovation Challenge 2025 (GIC2025)」がスタートしました。岡谷鋼機は「ものつくりに貢献するグローバル最適調達パートナー」として世界市場において新たな価値の提供に挑戦し続けることで、世界の産業と地域の持続的発展に貢献し、次代を切り拓いていきます。